「アンチポルノ」

あっという間に2020年が過ぎてブログの存在とか完全に忘れていました。

2021年も元気に自粛して過ごしています。

 

ところで今期のレポートで園子温監督の「アンチポルノ」という映画を批評しました。

せっかく4500文字くらい書いたからここで供養したいと思います。

↓オフィシャルサイト

www.nikkatsu-romanporno.com

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・はじめに

今回題材として取り上げる映画は園子温監督による「アンチポルノ」である。この映画は日活ロマンポルノ45周年を記念した「ロマンポルノ・リブート」という企画の一環で制作された。なおこの「ロマンポルノ・リブート」では制作期間や映画の長さ、濡れ場の挿入などさまざまな要件が設けられていた。公式サイトに書かれている予告文としては以下の通りである。

 

小説家として時代の寵児となった女・京子。極彩色の部屋に籠もり、マネージャー典子が伝えるスケジュールを分刻みでこなす毎日。私は京子なのか?京子を演じているのか?虚構と現実の狭間で、京子の過去の秘密が暴かれていく―。園子温監督が贈るアナーキーな美しき問題作。[R18+]

 

 

・本論

この映画の特徴としては様々な点が挙げられるが、最も重要なものとしては二項対立が挙げられる。この映画では上記の予告文に書かれた虚構と現実の他にも、処女と売女、SとMなど様々な要素の間での対立がむざむざと見せつけられる。ここではまずはそのストーリーを追うことから始め、これらの対立を通して何が描かれているのかについて論じたい。

 

映画は国会議事堂の前を、サイレンを鳴らしたパトカーが通るカットで始まる。すぐにタイトルが入ったのちに、主人公で女流作家の京子が部屋で音楽が流れる中踊るシーンとなる。しかしその夢世界も長くは続かず、起床とともに現実に引き戻される。しばらく京子は自身との対話を部屋を移動しながら行うが、そこでは人格分裂的に性格が激しく変化する。やがて彼女の精神世界の中でのみ生きる妹がピアノを演奏しながら対話を行うシーンとなる。しばらくすると彼女のマネージャーである典子が部屋を訪れ、スケジュールを分刻みで読み上げる。京子の感情がヒートアップする中で、典子との「SMプレイ」が始まるが、それを中断するチャイムが鳴り、インタビュアーの編集長ワタナベとカメラマン(集団)ワンハンドレッドが来訪する。そのインタビューの最中も京子と典子の「ご主人様と犬」という関係が継続し、京子はその中でフェミニズムに関する持論を展開する。そのプレイとインタビュー、そして京子の内面での創作意欲が爆発すると思った刹那、これらの行為は映画の一場面であるという現実のカットが入る。現実のカットでは犬であった典子はベテラン俳優、ご主人様であった京子は撮影現場での地位も低い新人俳優となっていて、立場がこれまでの虚構の世界と立場が逆転している。撮影現場でのいじめが加速する中、突然暗転し、再び自室のベッドで京子がベッドで起床するシーンが再現される。しかしこの再現部では、「私は気が触れている女を演じているだけ」と学校の講堂の舞台上と思われる場で独白するシーンが挿入されている。また、京子のセリフは全体を通して厭世観に囚われたものとなっている。この冒頭の再現が行われると、インタビューシーンではなく、今度は学生時代の家庭でのシーンが挿入される。ここでは京子とその妹が両親から性的なコンテンツを禁止されている様子、そして妹がほぼ自刃に近い形で死ぬ様子が写し出される。次に京子の部屋に戻ってくると、京子が創作の一環として典子にロールプレイをさせているシーンとなる。そのシーンののちにインタビュアーとカメラマンが来訪するが、インタビューのシーンに入ることなく映画制作現場に戻ってしまう。ここから精神世界は混沌を極め、学生時代の家庭→映画オーディション→教室→京子と典子の立場と役割が逆転した状態で冒頭の京子と典子のSMプレイ→インタビュー(フェミニズムトーク)の展開形→自室での独り語り→部屋に撒き散らされるカラフルな絵の具の中で発狂する京子となる。最後は象徴的に、瓶の中で大きくなりすぎて外に出られないトカゲを映し、映画は終わる。

 

つまりこの映画は構造に直すと、イントロ-A-B-A’1-C1-A’2-B’-C2-A’3-コーダとなっている。音楽構造的に言うと再現部を欠いた自由なソナタ形式であると言える。この脱構築の中でストーリーが進む構築は2つの相反する概念を共存させている。さて、ここからは数多く存在する二項対立を順に追っていく。

 

  1. 京子と典子

京子と典子はさまざまな要素で対立している。京子は若く才能溢れる創作者で、売女、サディストである。典子は中年でマネージャー(非創作者)、「売女になれない」女、マゾヒスト(犬)である。なおこの関係は撮影現場では逆転し、京子役の俳優は若く才能の無い全員から虐げられる存在、典子役の俳優は大御所ベテランで、撮影現場の全員から持ち上げられる存在である。

 

  1. 京子と妹

京子の妹は若くして (14歳頃?) 死んでいる。当然彼女は性的な経験がなく、その点売女を自称し、自室のプロジェクターで自身の性行為を投影する京子とは相反する概念である。また、劇中で京子の妹が蝶が大量に掲載されているう図鑑を読んでいるが、京子がそれを読む際にはその蝶は飛び立ってしまっている。蝶はギリシャ語でプシュケと呼ばれ、この語源はギリシア神話内に存在する同名の美少女にある。つまり、若く異性を知らぬまま永遠の世界へと旅立った妹と比べた際に、売女である京子はその美しさを失っていると解釈できる。なお妹との会話の際に、飛び立った蝶と瓶の中で大きくなりすぎて出られなくなったトカゲが対比的に扱われる。

 

  1. 京子の両親と京子

京子の両親は当然性行為を経験した「女ったらし」と「売女」である。そして彼らは家の中で当然のように性的な交渉を行なっている。一方で制服を着ているその娘たち(京子とその妹)はそのような経験がなく、両親からは性的なコンテンツを「穢らわしいから、下品だから」と言われ禁止されている。この性的経験の有無という対比、そして子供の性的コンテンツへの接触を安易に全て禁ずる一方で自身は性的な行為に励む大人の自己矛盾がこの人間関係に濃縮されている。また、食卓で京子の妹が「私死んでしまおうかと思っている」と発言した際に両親が「成績が悪いのか?学校の先生に褒められるために心がけろ」との返答を行う。この噛み合わない返答、そして子供の悩みに対して先生の評価という大人の事情を提示する点が根本的に視座が違っていることを表している。

 

  1. 処女と売女

 売女という概念は京子によって性的な経験が豊富で、男を昆虫のように扱う一方で純情すぎて壊れそうな女として定義されている。一方で、「女たちは処女を捨て去り、売女にもならない」とも形容している。処女の一般的な定義を確認すると性的な経験がない女性のことである。つまり、この定義の中では売女は処女と紙一重であり、どちらも純情な女性である。しかし、どちらにもなれない女性とは一線を画している存在である。つまり、ここでの二項対立は1か100ではなく、0か1かというレベルなのである。このどちらにもなれない女は、純情でもなく、中途半端で自由が全く存在しない女として定義されている。

 

  1. 男と女

男と女は人類が有性生物である以上常に存在してきた対立する2つの概念である。しかし、現代社会ではそのような肉体的な対立のみならず、社会的な対立も存在している。21世紀では是正傾向にあるが、「女は家庭を守り、男は外で仕事を」という固定観念は根深い。これに対して京子は「日本人は何にでも女流とつけたがるが、それは男の都合である」、「私(この国の女)を閉じ込める自由は本当の自由ではなく、それを使いこなせていない」、「自由を満喫しているかのように振る舞わなければならず、実際は街角の売春婦程度の自由すら満喫できていない」とフェミニズム論を展開する。つまり、この国の社会は男本位であり、例え不本意であろうと女はその社会の中で不自由ないかのように男の欲望のために振る舞わなければならないという主張である。実はこれは自室内での主張に留まらず、撮影現場のシーンになった際に撮影スタッフのほとんどが男であることに対するメタ的な批判でもある。物語に登場する女性の役者は結局男が作った枠組みの中で男の指示で男に支配されて生きているということなのだ。

 

  1. 現実と虚構

京子は自身のことを売女であり、性的な経験が豊富であると自称している。一方で現実としては彼女は処女であり、そのような経験が全くない。その結果として、京子は売女であろうとする度に甲高い耳鳴りと吐き気を催し、行為の途中でトイレに嘔吐しに走る。しかしこの綻びは2度目のインタビューで現れ、京子自身の初体験を投影する映像には何も映っていない。そして3度目の京子と典子の邂逅ではついに役が逆転し、処女の京子が典子に、典子が京子になる。

この映画にて京子の自室と撮影現場、どちらを現実とし、どちらを虚構とするかは議論の余地がある。しかし、2度目のカットののちに京子が撮影現場内での設定を引っ張ったまま帰宅し、その制服を着用したまま役が逆転するシーンに入るということは、全ては繋がっており、全ては虚構である。そして、その後に京子が台本を読みながら一人で駆け巡る。ここでは台本を書く作家としての京子(現実)とそれを演じる役者(虚構)があり、さらにその虚構の中に撮影現場という現実と演じられている場という虚構が存在する。さらにメタな視点で見ると、京子の小説(虚構)への対比概念として、10秒ほど登場する国会議事堂のシーンが挙げられる。前者は女(京子)が理を作る場であるのに対し、国会(=社会)は男が理を作る場である。つまり下図のような対比に対比が内包される構造になっているのだ。

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  1. 内包される自我と外的な自身

京子が小説内で自称する売女とは自由を満喫する存在である。これが京子のなりたい姿であり、内的な自我の理想像である。一方で、典子、つまり理に支配され、自由を演じる姿(=処女ではないが売女でもない)は社会の男から消費され、大人の男の言いなりになる外的な自身を映し出している。なお、実際の京子は処女だが売女ではないという最も中途半端な存在となっており、そのために自身を売女であると思い込むことで自身の存在を確認している様がたびたび見られる。

 

京子の妹は若くして死んだため、社会の理に囚われず自由に、そして処女であるまま美しい状態で在り続ける最も自由な存在となっている。それに対して現実世界での京子は社会の理に囚われる年齢になった一方で、処女だが売女ではない最も不自由な存在となっている。京子の部屋の中にある、育ちすぎて瓶から出られなくなったトカゲとはまさに京子本人のことなのだ。

 

 

・まとめ

ポルノとは大人の男が自分らの理の中で最上級に女性を消費する媒体である。映画タイトルの「アンチポルノ」とはこの女性消費コンテンツに対するアンチテーゼとしてこの映画が存在することを意味している。そしてこのアンチテーゼが「日活ポルノ記念の企画」というテーゼに内包されているこの構図は、まさにこの映画の構造と一致する。このメタにメタを重ねたような映画はただの日活ポルノというよりも、女性論などフェミニズム的メッセージが込められている現代アートなのである。

 

 

我ながら一度書きでよくこんな書いたなって思います。

一回も振り返ってないし推敲してないから多分どっかでおかしなことになってるかも、、、

そういえばこの映画の音楽めっちゃ好きなんですよね。

・Barker/Lomax - Lover Boy

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オッフェンバック / 「ホフマン物語」よりバルカローレ

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ベートーヴェン / ピアノソナタ第14番「月光」より第3楽章

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ベートーヴェン / ピアノソナタ第23番「熱情」より第3楽章

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ドビュッシー / アラベスク第1番

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アラベスクは予告編では登場していないけど本編では結構出てきます。

 

ところで映画*クラシックって結構よくある話だと思うんですけど、あれでたまに打ち込みとか使ってる映画見ると本当に吐き気がします。

過激派なので。

今日はここで終わり。