「アンチポルノ」

あっという間に2020年が過ぎてブログの存在とか完全に忘れていました。

2021年も元気に自粛して過ごしています。

 

ところで今期のレポートで園子温監督の「アンチポルノ」という映画を批評しました。

せっかく4500文字くらい書いたからここで供養したいと思います。

↓オフィシャルサイト

www.nikkatsu-romanporno.com

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・はじめに

今回題材として取り上げる映画は園子温監督による「アンチポルノ」である。この映画は日活ロマンポルノ45周年を記念した「ロマンポルノ・リブート」という企画の一環で制作された。なおこの「ロマンポルノ・リブート」では制作期間や映画の長さ、濡れ場の挿入などさまざまな要件が設けられていた。公式サイトに書かれている予告文としては以下の通りである。

 

小説家として時代の寵児となった女・京子。極彩色の部屋に籠もり、マネージャー典子が伝えるスケジュールを分刻みでこなす毎日。私は京子なのか?京子を演じているのか?虚構と現実の狭間で、京子の過去の秘密が暴かれていく―。園子温監督が贈るアナーキーな美しき問題作。[R18+]

 

 

・本論

この映画の特徴としては様々な点が挙げられるが、最も重要なものとしては二項対立が挙げられる。この映画では上記の予告文に書かれた虚構と現実の他にも、処女と売女、SとMなど様々な要素の間での対立がむざむざと見せつけられる。ここではまずはそのストーリーを追うことから始め、これらの対立を通して何が描かれているのかについて論じたい。

 

映画は国会議事堂の前を、サイレンを鳴らしたパトカーが通るカットで始まる。すぐにタイトルが入ったのちに、主人公で女流作家の京子が部屋で音楽が流れる中踊るシーンとなる。しかしその夢世界も長くは続かず、起床とともに現実に引き戻される。しばらく京子は自身との対話を部屋を移動しながら行うが、そこでは人格分裂的に性格が激しく変化する。やがて彼女の精神世界の中でのみ生きる妹がピアノを演奏しながら対話を行うシーンとなる。しばらくすると彼女のマネージャーである典子が部屋を訪れ、スケジュールを分刻みで読み上げる。京子の感情がヒートアップする中で、典子との「SMプレイ」が始まるが、それを中断するチャイムが鳴り、インタビュアーの編集長ワタナベとカメラマン(集団)ワンハンドレッドが来訪する。そのインタビューの最中も京子と典子の「ご主人様と犬」という関係が継続し、京子はその中でフェミニズムに関する持論を展開する。そのプレイとインタビュー、そして京子の内面での創作意欲が爆発すると思った刹那、これらの行為は映画の一場面であるという現実のカットが入る。現実のカットでは犬であった典子はベテラン俳優、ご主人様であった京子は撮影現場での地位も低い新人俳優となっていて、立場がこれまでの虚構の世界と立場が逆転している。撮影現場でのいじめが加速する中、突然暗転し、再び自室のベッドで京子がベッドで起床するシーンが再現される。しかしこの再現部では、「私は気が触れている女を演じているだけ」と学校の講堂の舞台上と思われる場で独白するシーンが挿入されている。また、京子のセリフは全体を通して厭世観に囚われたものとなっている。この冒頭の再現が行われると、インタビューシーンではなく、今度は学生時代の家庭でのシーンが挿入される。ここでは京子とその妹が両親から性的なコンテンツを禁止されている様子、そして妹がほぼ自刃に近い形で死ぬ様子が写し出される。次に京子の部屋に戻ってくると、京子が創作の一環として典子にロールプレイをさせているシーンとなる。そのシーンののちにインタビュアーとカメラマンが来訪するが、インタビューのシーンに入ることなく映画制作現場に戻ってしまう。ここから精神世界は混沌を極め、学生時代の家庭→映画オーディション→教室→京子と典子の立場と役割が逆転した状態で冒頭の京子と典子のSMプレイ→インタビュー(フェミニズムトーク)の展開形→自室での独り語り→部屋に撒き散らされるカラフルな絵の具の中で発狂する京子となる。最後は象徴的に、瓶の中で大きくなりすぎて外に出られないトカゲを映し、映画は終わる。

 

つまりこの映画は構造に直すと、イントロ-A-B-A’1-C1-A’2-B’-C2-A’3-コーダとなっている。音楽構造的に言うと再現部を欠いた自由なソナタ形式であると言える。この脱構築の中でストーリーが進む構築は2つの相反する概念を共存させている。さて、ここからは数多く存在する二項対立を順に追っていく。

 

  1. 京子と典子

京子と典子はさまざまな要素で対立している。京子は若く才能溢れる創作者で、売女、サディストである。典子は中年でマネージャー(非創作者)、「売女になれない」女、マゾヒスト(犬)である。なおこの関係は撮影現場では逆転し、京子役の俳優は若く才能の無い全員から虐げられる存在、典子役の俳優は大御所ベテランで、撮影現場の全員から持ち上げられる存在である。

 

  1. 京子と妹

京子の妹は若くして (14歳頃?) 死んでいる。当然彼女は性的な経験がなく、その点売女を自称し、自室のプロジェクターで自身の性行為を投影する京子とは相反する概念である。また、劇中で京子の妹が蝶が大量に掲載されているう図鑑を読んでいるが、京子がそれを読む際にはその蝶は飛び立ってしまっている。蝶はギリシャ語でプシュケと呼ばれ、この語源はギリシア神話内に存在する同名の美少女にある。つまり、若く異性を知らぬまま永遠の世界へと旅立った妹と比べた際に、売女である京子はその美しさを失っていると解釈できる。なお妹との会話の際に、飛び立った蝶と瓶の中で大きくなりすぎて出られなくなったトカゲが対比的に扱われる。

 

  1. 京子の両親と京子

京子の両親は当然性行為を経験した「女ったらし」と「売女」である。そして彼らは家の中で当然のように性的な交渉を行なっている。一方で制服を着ているその娘たち(京子とその妹)はそのような経験がなく、両親からは性的なコンテンツを「穢らわしいから、下品だから」と言われ禁止されている。この性的経験の有無という対比、そして子供の性的コンテンツへの接触を安易に全て禁ずる一方で自身は性的な行為に励む大人の自己矛盾がこの人間関係に濃縮されている。また、食卓で京子の妹が「私死んでしまおうかと思っている」と発言した際に両親が「成績が悪いのか?学校の先生に褒められるために心がけろ」との返答を行う。この噛み合わない返答、そして子供の悩みに対して先生の評価という大人の事情を提示する点が根本的に視座が違っていることを表している。

 

  1. 処女と売女

 売女という概念は京子によって性的な経験が豊富で、男を昆虫のように扱う一方で純情すぎて壊れそうな女として定義されている。一方で、「女たちは処女を捨て去り、売女にもならない」とも形容している。処女の一般的な定義を確認すると性的な経験がない女性のことである。つまり、この定義の中では売女は処女と紙一重であり、どちらも純情な女性である。しかし、どちらにもなれない女性とは一線を画している存在である。つまり、ここでの二項対立は1か100ではなく、0か1かというレベルなのである。このどちらにもなれない女は、純情でもなく、中途半端で自由が全く存在しない女として定義されている。

 

  1. 男と女

男と女は人類が有性生物である以上常に存在してきた対立する2つの概念である。しかし、現代社会ではそのような肉体的な対立のみならず、社会的な対立も存在している。21世紀では是正傾向にあるが、「女は家庭を守り、男は外で仕事を」という固定観念は根深い。これに対して京子は「日本人は何にでも女流とつけたがるが、それは男の都合である」、「私(この国の女)を閉じ込める自由は本当の自由ではなく、それを使いこなせていない」、「自由を満喫しているかのように振る舞わなければならず、実際は街角の売春婦程度の自由すら満喫できていない」とフェミニズム論を展開する。つまり、この国の社会は男本位であり、例え不本意であろうと女はその社会の中で不自由ないかのように男の欲望のために振る舞わなければならないという主張である。実はこれは自室内での主張に留まらず、撮影現場のシーンになった際に撮影スタッフのほとんどが男であることに対するメタ的な批判でもある。物語に登場する女性の役者は結局男が作った枠組みの中で男の指示で男に支配されて生きているということなのだ。

 

  1. 現実と虚構

京子は自身のことを売女であり、性的な経験が豊富であると自称している。一方で現実としては彼女は処女であり、そのような経験が全くない。その結果として、京子は売女であろうとする度に甲高い耳鳴りと吐き気を催し、行為の途中でトイレに嘔吐しに走る。しかしこの綻びは2度目のインタビューで現れ、京子自身の初体験を投影する映像には何も映っていない。そして3度目の京子と典子の邂逅ではついに役が逆転し、処女の京子が典子に、典子が京子になる。

この映画にて京子の自室と撮影現場、どちらを現実とし、どちらを虚構とするかは議論の余地がある。しかし、2度目のカットののちに京子が撮影現場内での設定を引っ張ったまま帰宅し、その制服を着用したまま役が逆転するシーンに入るということは、全ては繋がっており、全ては虚構である。そして、その後に京子が台本を読みながら一人で駆け巡る。ここでは台本を書く作家としての京子(現実)とそれを演じる役者(虚構)があり、さらにその虚構の中に撮影現場という現実と演じられている場という虚構が存在する。さらにメタな視点で見ると、京子の小説(虚構)への対比概念として、10秒ほど登場する国会議事堂のシーンが挙げられる。前者は女(京子)が理を作る場であるのに対し、国会(=社会)は男が理を作る場である。つまり下図のような対比に対比が内包される構造になっているのだ。

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  1. 内包される自我と外的な自身

京子が小説内で自称する売女とは自由を満喫する存在である。これが京子のなりたい姿であり、内的な自我の理想像である。一方で、典子、つまり理に支配され、自由を演じる姿(=処女ではないが売女でもない)は社会の男から消費され、大人の男の言いなりになる外的な自身を映し出している。なお、実際の京子は処女だが売女ではないという最も中途半端な存在となっており、そのために自身を売女であると思い込むことで自身の存在を確認している様がたびたび見られる。

 

京子の妹は若くして死んだため、社会の理に囚われず自由に、そして処女であるまま美しい状態で在り続ける最も自由な存在となっている。それに対して現実世界での京子は社会の理に囚われる年齢になった一方で、処女だが売女ではない最も不自由な存在となっている。京子の部屋の中にある、育ちすぎて瓶から出られなくなったトカゲとはまさに京子本人のことなのだ。

 

 

・まとめ

ポルノとは大人の男が自分らの理の中で最上級に女性を消費する媒体である。映画タイトルの「アンチポルノ」とはこの女性消費コンテンツに対するアンチテーゼとしてこの映画が存在することを意味している。そしてこのアンチテーゼが「日活ポルノ記念の企画」というテーゼに内包されているこの構図は、まさにこの映画の構造と一致する。このメタにメタを重ねたような映画はただの日活ポルノというよりも、女性論などフェミニズム的メッセージが込められている現代アートなのである。

 

 

我ながら一度書きでよくこんな書いたなって思います。

一回も振り返ってないし推敲してないから多分どっかでおかしなことになってるかも、、、

そういえばこの映画の音楽めっちゃ好きなんですよね。

・Barker/Lomax - Lover Boy

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オッフェンバック / 「ホフマン物語」よりバルカローレ

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ベートーヴェン / ピアノソナタ第14番「月光」より第3楽章

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ベートーヴェン / ピアノソナタ第23番「熱情」より第3楽章

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ドビュッシー / アラベスク第1番

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アラベスクは予告編では登場していないけど本編では結構出てきます。

 

ところで映画*クラシックって結構よくある話だと思うんですけど、あれでたまに打ち込みとか使ってる映画見ると本当に吐き気がします。

過激派なので。

今日はここで終わり。

 

やる気??ないよそんなの。

もう早いもので6月になり、2020年の折り返し地点もそろそろ迫ってきました。

前にブログ書いたの3ヶ月前だしまじで周期不順でしょこれ。

 

6月となると最高気温20度超どころか25度も超える日があってそろそろ冷房童貞卒業しようか迷ってます。扇風機処女はもう奪われてるんだけどねガハハ()

 

もともと自分のやる気は興味のあるものとか新規性のあるものなどに向けられることが普通なんですが、もう梅雨が近づいてくるとそれも消え去ります。

就活とかいうクソイベント早く死滅してくれ。

1年後期で本当に嫌になって進振りでどうしても行きたい学科にいけなさそうだったから1年留年してたし心理的な余裕はあったつもりだったけど、やっぱいざ現実が近づいてくると本当に渋い。

 

なんで梅雨がクソかというと

・湿度が高い

・雨

・出かけなければいけない用事がたまにある

・虫が発生

・気温が高い

みたいなゴミ要素しかないから。

まあ基本的に鉄筋とコンクリートで占められてる東京に住んでいるのが救いか、、、?

田舎みたいな地面露出してますよみたいな場所だったら多分一生生きていけない。

 

最近どうもクラシックとジャズに飽きてきて友人に勧められたハロプロにちょっとハマり始めました。

モー娘。なら北川莉央、アンジュルムなら上國料萌衣が推しです。

もう引退したけど尾形春水も顔だけなら好きだった。

普通に可愛いので見て欲しい。

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久しぶりの更新

まじで飽き性すぎてすぐに新しい事始めては数ヶ月で飽きるのよくないと思ってる。真顔。

最近といえば、コロナでサークルの演奏会が無くなった挙句に大学の授業開始は2週間繰り下げられたことによって、3月はもちろん4月の半分くらいめっちゃ暇になる事件が発生してしまった。まじで暇。Netflixは契約してあるから面白い映画とかあれば教えてください。

というか授業開始が遅れるのは歓迎だけども、オリンピックもある以上夏休みまで酷く伸ばせないしどうするんですかね。

3月にやったことといえば、1917とミッドサマーのディレクターズカット版見に行った以外のやった事が何も思い出せない。あとは友達と渋谷で飲んでたら終電逃してネカフェに泊まった事くらいか。パラサイトをレイトショーで見に行ったの2月末かなとか思ってたら実は2/1だったしまじでこわい。

やっぱりいろいろなことを精力的にやっている時期は時の流れが早いし、逆に今みたいな時間を持て余している時期は時の流れが遅すぎて嫌になってくる。というか最近記憶力が致命的になってきていて、(特に女子と)サシ飲みする予定はカレンダーに絶対入れないから写真かLINEのトーク履歴でしか日付の記憶を遡れないし、まじで老化進みすぎなのでは???まあおそらく春休みに入ってから学問的なものにあまり取り組んでこなかったことによる思考力の全般的な低下だと思うので、そこは時間をかけて回復していきたい。

春休み、当然あまり出かけないので出費の機会なんてないし一度のお出かけでお金を結構使うなんて事がよくあるわけで。それこそ渋谷で飲んだ時に酔った状態で渋谷散歩してたらタワレコに行き着き、ノリでマーラー全集(バーンスタイン)を衝動買いしてしまった。もちろん相手が話が面白くてノリが良いタイプだったこともあるだろうけども、それにしてもよく5000円くらいのCD集ノリで買ったな。まあたまにやるけど。おかげさまで最近はマーラーブームに拍車がかかってめっちゃマーラー聞いてます。ついこの間(と言っても1ヶ月前)にマーラーの第1番演奏したばかりなのに、自分にしては珍しく演奏会後も飽きずに聴き続けてる。普段は演奏するまでどハマりして、本番後は急に熱が冷めてしばらく録音すら聞かなくなるくらいなのに…。まあR.シュトラウス同様にマーラーの作品には人を魅了して止まない魔力があるから仕方ないのかもしれない。

 

毎度ブログを更新するたびにやっているクラシックの曲紹介なんですけど、今日は明日演奏予定の室内楽でも。サン=サーンス 七重奏曲 変ホ長調 op.65

普通に室内楽といえば、基本的には同じ種類の楽器同士を(弦楽器は弦楽器と、管楽器は管楽器と)組み合わせて、そこに必要に応じてピアノを加えるのが一般的な編成となる。けれどもこの作品はなんと弦楽五重奏(1st&2nd Vn, Va, Vc, Cb)+ピアノ+トランペット。トランペットが室内楽なんて基本的に金管アンサンブルくらいだからまじで珍しい。

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曲は全4楽章からなり、演奏の長さとしては全部繰り返しても17分程度。比較的小規模な作品と言える。

 

第1楽章はPréambuleと書かれていて、意味としては英語で言うIntroductionみたいな感じ。序奏付きで、序奏はトランペット以外のユニゾンで始まる。主部はフガート。合間に挟まるさながら運命の動機のような陰鬱なモチーフが終楽章でも現れる。最後のコーダではトランペットのアルペジオを弦楽器が繰り返して終わる。演奏時間は約5分。

今書いてて思ったけどこれ、超シンプルな自由なソナタ形式でもあるんじゃないですかね??まあ再現部が大幅なショートカットをされているから実際のところ怪しい。

 

第2楽章はメヌエットメヌエットとはもともとフランスにルーツがある舞踊で、3拍子の2小節がひとまとまりとして機能する。ちなみにベートーヴェンより前の作曲家の交響曲における舞曲楽章は基本的にメヌエットだった。形式としては当然3部形式で、主部は明るく跳ねるような4分音符単位でのリズム、トリオは一転して落ち着いて優雅に流れるような旋律が特徴となっている。演奏時間は約4分。

 

第3楽章はIntermèdeと書かれていて、意味としては間奏曲的なのが近いと勝手に思ってる。特徴的なリズムの上に陰鬱なメロディーが積み重なっていく緩徐楽章。演奏時間は約5分。

 

第4楽章はGavotte et final。意味はガヴォットとフィナーレ。ガヴォットとはこれもまたフランスの舞踊の一種で、いわゆるフォークダンス的なそれ。基本的に2拍子か4拍子で、時代としては17世紀から18世紀にかけて持て囃されていた。曲はピアノによる朗らかでどこか呑気な主題提示に始まり、主題確保はヴィオラ以上の弦楽器によって行われる。このようなピアノと弦楽器のやりとりが幾度か繰り返されながら曲は進むと、中間部に至り、トランペットによる信号音形が突然登場する。これに合いの手を打ちながら展開していくと再び冒頭の主題に回帰するが、今度はヴィオラに始まるフガートがテンポを上げて始まる。曲はフガートの終わりとともにさらに加速していき、コーダに至るとそのまま華やかに終わる。演奏時間は約4分。

 

 

秋学期

いやマジで2ヶ月丸々なにも書いてないの草

そもそも前回のネタが夏休みで終わってるの悲しいっすね…

秋学期始まって3週目だけど、来年入る予定の研究室をに見学しに行ったり授業内容がますます専門化してきて頭がおかしくなってきたよ。

映画の研究室見に行った時この研究室でなにしたいのか一人づつ順番に言ってねって言われた時心臓発作で死ぬかと思いましたね()

でもまあ先生の授業で興味を持ったこと、音楽と映画の関係とかやってみたいって素直に言ったら喜んでくれたらしい。

 

そういえば最近マーラーブームが再燃したのと、超爆演と名高いテンシュテット×NDRマーラー交響曲第1番のCDを買っちゃったのが相まってマラ1、死ぬほど聞いてます。

残念ながらspotifyにもyoutubeにも落ちてないんだけれど、それに準ずるくらい名演と名高いキリル・コンドラシン×NDRのマラ1貼っておきますね。

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この作品はマーラー最初の交響曲で、もともと交響詩だったものを交響曲にして、第2楽章を削って4楽章構成にしたという複雑な経緯がある作品。だから標題もついているし、もともとは楽章ごとに名前的なそれもあった。もともとは以下のような構成。

 

第1部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど

 第1楽章 春、そして終わることなく

 第2楽章 花の章

 第3楽章 順風に帆を上げて

第2部 人間喜劇

 第4楽章 座礁、カロ風の葬送行進曲

 第5楽章 地獄から天国へ

 

交響詩ってのは音楽じゃない芸術(絵画や詩など)を音楽で表現しようってことで編み出された新ジャンル的なサムシング。リストが創始者だと言われていて、マーラーの同時代人であるR.シュトラウスなんかは交響詩たくさん書いてるよ。

まあそんなわけで4楽章構成、ニ短調

 

第1楽章はソナタ形式で、ニ短調なのに冒頭で長いAの音がフラジオレットで持続的に伸ばされているのが割とマーラーらしいポイント。普通は調性の主音のDじゃないの!?って感じになる。曲としては明るくて牧歌的。

 

第2楽章はスケルツォ…と思わせてワルツ。それもWiener Walzer的な感じ。中間部は昔からのドイツ舞曲、レントラーの感じ。再現部はまたワルツに戻って終わる。

 

第3楽章は葬送行進曲。ただ重々しいものではなくどこか皮肉げな感じ。最初はコントラバスソロで始まるけどメロディーがフレールジャックから引用されている。日本だとグーチョキパーでなに作ろの歌なのであんまり葬送行進曲感が伝わってこない…

 

第4楽章は唐突なシンバルから始まる。第1主題は激しく、逆に第2主題は息が長く甘美ながらもどこか空虚な印象。ちなみにコーダのホルンの勇壮なメロディーのとこでホルンパートは立つので視覚的に超見所(普通は演奏中立つなんて論外)。

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演奏的にはヘナチョコだけど古き良きクソダサ字幕は評価できる。立つのは0:57ごろから。

忙しくてブログ全く書いてませんでした

とりあえず期末試験が終わって夏休みに突入したのが8/1、そして直ぐにサークルの合宿part1が来て昨日帰ってきたばっか…

ようやくまともに夏休みに入れるけど、金もないし暑すぎるから外に出る体力もないからカスですね…

結構合宿前後で個人練の時間確保出来たおかげで今まで弾けてないパッセージが弾けるようになったりと結構な成長が見られてまじでよかった。

 

今週聞いたクラシックとかマジであんまりないんだけど代わりにelectro swingばっか聞いてました。

 

ずっと昔から推してるcaravan palaceの新しい動画が6月末に出て、さらに新しいアルバムが近日発売とか最高かな?

マジで名曲揃いなのでぜひいろいろ聞いてみてください。

CaravanPalace - YouTube

期末試験

とりあえず金曜日で期末試験が半分以上終わったわけなんですけれど、多分まあ死んだ…

金1と金3どちらも記述試験で右手は死んだし、金1なぜか試験時間40分しかなくて解答完璧にわかってたのに書き終わらなかったし…

音響学の論文読んで問題点と解決方法と改善すべき点を40分で挙げろとか無理がある()

映像史は学んでて楽しかったけどね…サイレント映画からトーキーへの変遷、ミュージカル映画の成り立ちにヘイズコード、フィルム・ノワールからのアメリカンニューシネマ、そしてブロックバスター映画とキーワードを挙げればきりはない

残りは月曜に英語と木曜に物理学だけど英語は勉強しなくてもどうにかなるしたぶんどうにかなるっしょ()

 

最近ハマってるクラシックといえば歌劇「運命の力」。4幕まであるのもあって実際の上演機会は少ないのが悲しいけれど…

G.Verdi  La Forza del Destino

ストーリーはくそ長いから割愛するけど要は起こること全てが悪い方向に転んで行き、抗い難い「運命の力」によって誰もが不幸な結末を迎えるまさにイタリアのオペラって感じの悲劇。

力と言っても活気があるっていう感じのvigoreではなくもっとこう強いっていう感じのforzaを使ったり、運を意味するfortunaではなく決定付けられていて抗えない運命のdestinoを使うあたりもう救いようがない()

ほんとまじで無限に救いが無い話なので気になった人はあらすじだけでも是非

不幸

そういえば前回の記事でモーツァルトの話してたと思うんだけれども先週それが1+2なんだって話で解決しました。めでたしめでたし。

しかし今月、ぎっくり腰とか物大量になくしたりパソコンもぶっ壊れるしマジでひどい。お祓い行った方がいいんじゃないかなぁ…そのうち交通事故とか隕石で死ぬとかありそうで怖いよね。というかレポートが中身完璧なのにプリンターの不具合が原因で再提出になったのも忘れてた。理工学術院をぶっ壊したい。

 

そういえばほんと数日前にこの曲の譜読み始めたんですよ。

R.Schumann Violin Sonata No.2

まあとりま無限にかっこいい(ボキャ貧)

1楽章     Ziemlich langsam - Lebhaft

2楽章     Sehr lebhaft

3楽章     Leise, einfach

4楽章     Bewegt

実はシューマン、楽章の演奏指示ドイツ語なんですよ。

第1楽章は序奏付きのソナタ形式で序奏はピアノとバイオリンの何回かの和音で始まる。しばらくしてるとaccel.してそのまんまattacca的に提示部へ。まあとりあえずかっこいい()

第2楽章はスケルツォ楽章で6/8拍子。まあ特筆すべきことはなし。

第3楽章はpizz.で提示される主題を元にした変奏曲。第2変奏が綺麗。

第4楽章はソナタ形式。第1楽章と似た感じのダークなかっこよさな感じだけれどちゃんとニ短調ニ長調に最後は解決して終わる。

まあとりあえずこのユリア・フィッシャーっていう才能マシマシの美人が若い時に弾いてるクソかっこいい曲まじで惚れるからぜひ聞いてみて欲しい。